日蓮聖人の弟子、日家上人が建治2年(1276年)に聖人生家跡に一宇を建立し、高光山日蓮誕生寺としたのが始まりとされています。その後天災に遭い、現在の地に移り小湊寺誕生寺と改称されました。宝永3年(1706年)建立の仁王門や、日蓮聖人像が安置されている祖師堂、本師殿宝塔などがあります。また、灯篭流しや御会式など、年中行事も多く開催されます。
便宜上、北条バイパスと国道410号線との交点を起点として表示しています。
初期浮世絵師の巨匠菱川師宣は鋸南町の縫箔刺繍を業とする吉左衛門の子として生まれました。名は吉兵衛、晩年仏門に入り友竹と名乗りました。生年及び在郷年代は不明ですが、青年期に画技を志し、その後江戸に出て、浮世絵師として大成しました。特に木版画の分野に新しい様式を生み出し、浮世絵版画創始期の第一人者と目されるに至りました。記念館には「見返り美人」などの作品資料を中心に、他の浮世絵師歌川広重、豊国、国芳らの作品も展示され、浮世絵の歴史や浮世絵から見た江戸庶民の風俗を紹介しています。
御神的(おまと)とは弓を放って、矢の当った的を見てその年の作況と気候の順不順を占う神事で、起源は古く第44代天正天皇の時代( 680〜 748年)に大飢饉があり、民衆が飢えに喘いでいたとき、常陸国(今の茨城県)の鹿島大明神のお告げを承けた別当平田権之頭が氏子の川津三郎に重藤の弓を授け、「増間に往きこの弓を持って、鳥獣を射って食料とし郷民を救え」との神のお告げの使者として行かせました。この思いに報いるため増間の人々が日枝神社の裏山の鹿島明神を祠り、毎年2月1日(旧暦)を例祭日と定めました。
めがね橋は白浜町滝口地先を流れる二級河川長尾川に架設され、その延長は20m、幅員4mの石積み工法の洋式三重橋で、川辺に映るその姿がめがねに似ているところから、「めがね橋」と呼ばれています。明治21年3月(1888年)地元の寄付によりつくられ、橋のたもとの石は静岡県伊豆から運び、橋の本体の石は近くの海岸から切り出したもので、地元の石なら塩害に強いと選ばれました。大正6年(1917年)の洪水や、大正12年(1923年)の関東大震災にも耐え、戦時中は戦車が通ったといわれる頑丈な橋です。現在は約50m下流のフラワーラインにコンクリート橋が架かり、めがね橋は車の通行を禁止し、保存されています。関東では、白浜町だけしかない珍しいものといわれています。
清澄山の頂上近くにあり、日蓮に最もゆかりの深い寺であります。背の高い杉の木立で埋った境内には大きな屋根の本堂や参籠殿が建ち、神聖な雰囲気が漂います。本堂の前には「清澄の大スギ」と呼ばれる杉の巨木があり、本堂の南には日蓮聖人がお題目を唱えたという"旭の森″があり、また参籠殿には左甚五郎作と伝えられる"鎮火牛″が残っています。その他には、水面に星影を映す星の井戸や、江戸時代初期の中門があります。宝亀2年( 771年)に不思議法師と呼ばれる僧がこの山を開いたといわれ、天福元年(1233年)日蓮聖人が12歳でこの寺に入り僧侶となり、その後諸国で修行し、建長5年(1253年)に帰山し、本堂の南にある"旭の森″で"南無妙法蓮華経″のお題目を唱えたのが立宗の始まりと伝えられました。その後江戸時代においては格式十万石を付与され、寛永4年(1627年)には幕府から寺領五百石を与えられました。明治維新まで安房上総の総氏寺として栄え現在に至ります。